大震災・巨大津波の脅威、教訓

〜 震災近況報告第8報(8月11日付)

                                                                                  渡 辺 陽 一
 

 東日本大震災発生から5カ月が経ちました。この間、多くの皆さまから心温まるお見舞いと励ましを頂戴し、また、7回の近況報告にお目通しをいただき、改めてお礼を申し上げます。

 震災当日は沿岸部で雪が降っていましたが、今日は県内何処も厳しい夏日です。各地で震災の犠牲者を悼み、復興への願いを込めた花火が打ち上げられています。お盆を前に県警が沿岸部で行方不明者の集中捜索を実施していますが、先ほど、仙台市若林区などで3人の遺体を発見したとのTV報道がありました。河北新報朝刊1面に載る県内行方不明者数2千400人台がこのところ変っていません。遺体安置所に収容されている身元不明者の確認と合わせ、見つけるのが難しくなっています。県内の避難者数は今日現在7千361人です。

がれきの分別・処理や仮設住宅への入居は遅れていますが、津波被害の大きかった沿岸部もゆっくりしたペースながら復旧への歩みを始めています。しかし、とても復興といえる段階には至っていません。

宮城県内自治体は9月を目処に街づくりや産業再生を盛り込んだ復興計画づくりを急いでいますが、・住宅の高台移転、・水産業特区、・生産法人などへの農地集約等で意見調整が難航しています。例えば、甚大な被害を受け運休中の仙石線の一部区間などJR在来5路線のルート見直し一つとってみても、居住区域が決まらないことには、検討にも入れないのが実情です。

 先日、古文書と津波堆積物の解析によって、869年に陸奥国府を襲った貞観年津波(地震M8.3、断層規模200qと推定)などの実態解明を試みている東北大学大学院箕浦教授の講演を聴きました。1.100年の時を隔てた二つの事例で共通する津波の実体分析から、大震災・巨大津波災害のミレニアム周期の可能性を指摘し、「我々は未来を知り得ず、現象の予測は極めて困難であるが、過去は正確に知り得る。様々な記録に過去を捜す試みは、一段と重要になるに違いない。今次のようなミレニアム災害の防災・復興を計画するうえでは、ミレニアム基準の国家観が必要になる。」と語っていました。国や自治体の議論を聞いていますと、残念ながら望むべくもない感を否めません。

 

仙台内陸中心部は、あちこちで、オフィスビルやマンションをシートで覆い、損傷した外壁等の補修工事が行われています。今街中を見ますと、それ以外に地震があったことを窺わせるものは見られませんが、地割れや地滑りの「山津波」被害に遭った丘陵地の団地や立ち入り禁止・解体を迫られている100棟余りのマンションと、「危険」と赤札の貼られた約1.000戸の民家は、殆ど手がつけられていません。新幹線は臨時ダイヤながらほぼ旧に復しています。仙台空港も空港アクセス鉄道と空港ビルの3階が利用できませんが、予定を2ヵ月早め先月末から国内線は完全再開です。仙台市ガス局供給設備の復旧には1年、下水処理施設も完全復旧に3年、凹凸とひび割れがあちこちに見られる高速道、国道等の完全補修には来年度いっぱい要する見通しです。

 公共の教育・文化・体育関連施設はM7.5クラスの宮城県沖地震に備えて順次耐震補強を進めてきましたが、9.0の大規模地震で、その殆どが使用不能となりました。仙台フィルの本拠地である青年文化センター音楽ホールなど数カ所は復旧しましたが、県民会館などの再開見通しは立っていません。小・中学校の耐震補強もほぼ終わっていましたが、その多くが程度の差こそあれ何らかの被害を受けており、市内公立全201校のうち全くの無傷は2校だけだそうです。今でも14校が教室立ち入り禁止、来春受験を控えた中3の孫娘は仮設校舎の着工が未だ先とのことで、今は始業開始遅れを取り戻すための補習授業も終わり夏休みに入っていますが、休み明け後も暫くは、私が戦後体験したような、体育館を間仕切り(今回は段ボールで仕切り)しての授業を余儀なくされるようです。

 

今回の震災を経て仙台は震災に強い街であると評価する向きもあります。確かに震度6以上の強震に見舞われながら、阪神・淡路大震災のような直下型ではなく、また、建物への影響が小さい、揺れの周期が短いタイプの地震であったことが幸いし、津波の被害を除くと建物被害を少なくしました。建物の倒壊や傾いた所もありましたが、日中のため、犠牲者が出なかったことも、また事実です。しかし、ライフラインと交通をはじめとするインフラの機能停止は長期に亘り市民の生活を直撃しました。想定が甘かったのか、備えが弱かったのか。市内中心部において、最長で、電気4日間、ガス37日間、水道16日間のライフラインの停止であり、これで本当に震災に強い街と言えるのか、問われています。

奥山仙台市長の寄稿文(政投銀季刊誌6月号)の一部を紹介します。

「今回の被災の困難の一つは、都市インフラである電気、ガス、水道が全面的に機能停止したことです。仙台市は、昭和53年に宮城県沖地震の経験があるので、その再来に備えて物資や避難所の準備をしてきました。これで4〜5日は籠城的な生活も可能で、その間に救援が来ると想定していました。ですが、それが崩れました。

避難者数が10万人超と想定よりはるかに多く、食料も避難所の数も、避難所に届ける人手などもまったく足りなかったのです。加えて、そうした状況を解消するための他の地域からの支援に必要なガソリンなどのエネルギー源も断たれました。ガソリンの需給が回復したのはライフラインの回復後です。この逆転現象は致命的で、我々のコントロールのもっとも及ばないところです。人口百万の都市で、すべてのライフラインがダウンしたこの経験を検証し、後世に伝えねばならないと思っています。」

 仙台市は、復興計画の素案として5月末に策定した「復興ビジョン」の中で、津波と揺れで甚大な被害を受けた東部沿岸地域、丘陵部の宅地を再建する二大課題の克服に加え、東北の中枢都市として、防災や環境、経済や市民協働といった分野で新たな魅力を持った都市づくりを国内外に訴えることを重点に打ち出し、10月末の最終案決定を目指しています。             

 

 本誌への寄稿依頼を受け、改めて岩手県宮古市田老地区から宮城県南の山元町まで出掛けてみました。処によっては、震災廃棄物リサイクル事業化構想の調査や、知人や友人の見舞いで幾度か訪れていますが、震災後初めて津波被災地に入ったときには、一面がれきの山と化した海辺の街に思わず声を呑んだものです。今回は、屋上に避難した町職員30人のうち助かったのが10人という悲劇の現場である、宮城県南三陸町防災対策庁舎の剥き出しになった赤い鉄骨の骨組みに絡まっていた漁網や浮子も取り除かれ、地盤沈下により海水が溜まり車の走行が難しかった個所も迂廻路なしに行けるなど、時の経過を窺わせる変化もありました。しかし、分別されないまま仮置き場に堆く積み上げられ悪臭を放つヘドロやがれき、田畑のところどころで見かける海水が乾いてできた白い塩の結晶は、未だに津波の爪痕をまざまざと残す光景として心痛むものでした。

 大震災・巨大津波の脅威、津波に備えた先人の警鐘、智恵、教訓は、既報でも紹介しましたが、今回改めて現場に足を運び見聞きすると同時に、多くの方から新たな情報をいただきました。

貨物運行が廃止されている磐越西線に石油タンク貨物列車を走らせたJR貨物の貴重な話を伺う機会もありました。

今回は、このようなことを中心に報告します。

 

* 日本海側との連携と「鉄道マンの底力」

 宮城県震災復興会議で日本総合研究所の寺島実郎理事長が「東北の日本海側との連携を見据えて、再建を図る視点が不可欠」と指摘しています。

今回の震災は太平洋側の陸・海・空の交通・物流網を一網打尽に破壊しましたが、これをきっかけに新潟をはじめ日本海側の港湾、山形空港などの存在感が増しました。高速道は磐越道、山形道の応急復旧を急ぎ、新潟、山形からのルート確保を優先しました。仙台市と周辺都市の都市ガス供給は、主として電力向けに使われている新潟〜仙台間のパイプラインが活きました。

 地元紙河北新報の地震発生を知らせる号外、翌12日の朝刊は災害協定を結んでいる新潟日報の協力で発行できたものです。

河北の友人が詳しく教えてくれました。地震で本社の紙面製作用のコンピューターが転倒したため、新聞製作が困難になり、新潟日報が号外を作り、そのデータを河北新報社に送信して河北の印刷所で印刷。翌日の朝刊(8面)は河北の記事を回線で新潟日報に送って紙面を作成、河北の印刷所で印刷したとのことです。

JR貨物東北支社長から、南東北に石油製品を送るため磐越西線に貨物列車を運行させたとの話を伺いました。通常は短い距離で行われている石油専用列車を苦労しながら長距離運行したにもかかわらず、あまり知られていません。

 震災で太平洋岸は殆どの製油所と配送拠点を失い、被災地は深刻な燃料不足に陥りました。一方、大量輸送手段である鉄道網も首都圏と東北を結ぶ東北線、常磐線とも被災し、横浜市根岸駅から上越線を使った迂回輸送手段しか頼る手はなくなりました。震災1週間後の18日に根岸駅から上越線、日本海縦貫線を使い青森から盛岡に入るルート輸送を開始しましたが、盛岡以南のルートが寸断されており、南東北への供給が出来ません。検討の結果、磐越西線の復旧に全力をあげ、これを備蓄タンクのある福島県郡山への供給ルートとして活用する方針が打ち出されました。ただし、これには多くの課題がありました。もともと、全線単線の磐越西線は、大量輸送を前提としていないため、編成車両数が限られている。勾配が多く、機関車が引く貨車の重量制限もある。急な勾配区間にはDD51形ディーゼル機関車2台が必要であるが、貨物運行は既に廃止されていて、機関車を関西、九州から集める必要がある等々です。JR東日本とも連携の下、試運転を繰り返したうえ、根岸から新潟貨物ターミナルまでは20両編成1本で走り、新潟貨物ターミナルで10両ずつに分割して、郡山まで2回に分けて輸送する方法をとることになり、3月25日から東京〜郡山間の東北本線が再開する4月16日まで輸送を行いました。10両編成は20キロリットル積みのタンクローリー約30台分相当の燃料輸送が可能だそうです。

3月25日は、降雪の影響で磐梯町の上り勾配で車輪が空転し動けなくなり、会津若松から機関車が駆け付け貨物列車を押し、3時間遅れて郡山に到着。第1便が着いたときには地元でバンザイの声があがったとのこと。同社自体も膨大な損失を被った中で、レスキュー隊の面目が果せ、合わせて鉄道マンの魂、底力を示したエピソードであります。 

* 大川小学校の悲劇は何故? そして教訓は?

宮城県石巻市立大川小学校は、地震直後、児童がいったん校庭に避難しながら北上川の橋のたもとにある小高い場所へ移動する途中に津波に襲われ、児童108人のうち、保護者が引き取り家に戻った児童30人を除く78人中の68人が死亡、6人が行方不明。教職員も当時学校にいた11人のうち9人が亡くなり、1人が行方不明。校庭などに避難した住民も多くが犠牲になりました。

先日、現場を訪れ、その後に東北大学大学院災害防御研究センター長今村教授(津波工学)の講演を聴く機会がありました。

 第7報で触れましたが、今回は、かつて津波襲来の記録がなく、警戒心の薄い山間部や河口から遠く離れた河川流域にも津波が襲い被害を受け、多くの犠牲者を出しています。

新北上川河口から約5qの距離にあり、避難所にも指定されている山あいの大川小を襲った津波のメカニズムと悲劇を繰り返さないための対策は何か。以下、教授の話です。

 「今回の大川小には、陸地に侵入してきた津波と北上川を遡上してきた津波が同時に襲った。川と山に挟まれた独特な地形が被害を拡大させた。河口から5qほど離れているが、河口から基本的にはフラットで、途中はある程度幅があるが大川小辺りから急に狭くなる。今回は地盤沈下し、その分津波にとっては侵入しやすい条件も加わり、狭くなるところでエネルギーが集中して津波の高さが上がるか、流速が増す。残念ながら、大川小はいったん広がった津波が集中して破壊力を増してしまった場所になった。土砂とがれきなどが混じって襲ってくる川の遡上と合わせ、今回の惨事の背景には複合的な要因が重なった。

 大川小は避難所に指定されているが、学校の危機管理マニュアルには津波を想定した2次避難先が明記されてなく、学校の裏山か約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっている新北上大橋のたもとを目指すか、の判断に時間を要し過ぎた。防災訓練や日常の点検の中でできるだけ対応を具体化させることが重要で、一つだけでなく、いろいろな代替案を設けて何が起きても対応できるような事前の協議、話し合いが必要である。今回は避難訓練が行き届き、津波情報も出たので校庭への避難行動は促せたが、次の判断・行動が遅く、しかも、残念ながら誘導した2次避難場所(高台)が津波に対して十分でなかった。」

 学校の裏山は倒木の恐れと斜面のため選択肢から外れたとのことですが、確かに小学生にとっては足場が悪い急斜面でした。今は津波に洗われ滑りやすくなっていることもあり、私でも簡単にいかないという思いがしましたが、地震発生からおよそ50分、やはり早い行動を促すための何かが足りなかったことだけは確かです。

安全でなければならない学校でどうすれば命を守ることができたのか、何が上手く行き、何が足りなかったのか、悲劇を繰り返さないための検証と、対策づくりが始まっています。 

  * 防災の教え「津波てんでんこ」

 ギネスブックにも登録された大防潮堤が破壊された岩手県釜石市を再び訪れました。前にも報告しましたが、800人の死者と500人の行方不明者を出しながら、3千人近い小中学生の殆どが無事に避難し、ハードに頼りがちな防災の限界と、防災教育・訓練などといったソフトの組み合わせで対策を考えることの大切なことを教えてくれた街です。知人に調べてもらいましたら、当日の釜石市内の小中学生は正確には2千923人、うち死者と行方不明者は5人。学校を休んでいた生徒で、学校からの避難は完璧であったようです。最近、盛んに報道されていますが、三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で、てんでんばらばらに早く高台に逃げろ)に基づいた防災教育の成果です。知人の孫の中学校は、平均して週1時間を防災教育に充て、年3回避難訓練を行っているとのこと。今回、校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走り出し、普段の防災訓練で使っている高台にいったん集合、誰かが「まだ危ない」と言い出し、さらに高い場所にある老人介護施設まで移動しました。学校から1qも走った計算になるそうです。

「津波てんでんこ」は、9歳のとき昭和大津波に遭遇して危うく溺死を免れた、岩手県大船渡市出身の津波災害史研究家山下文男氏(87)が、幼少期に父母が語っていた言葉を講演で紹介したことがきっかけで広がったと聞いていました。

帰仙後、その山下氏が「哀史 三陸大津波」などの著書がある日本共産党中央委員会の元文化部長であり、今回の震災には入院中の県立高田病院4階で遭遇したこと。流された体が引き波に持って行かれそうになり、津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死に手繰り寄せ、それを腕にぐるぐる巻きにして、顔だけ水面から出し、九死に一生を得たということなどを、ノンフィクション作家佐野眞一氏の著書「津波と原発」で知りました。

読まれた方も多いと思いますが、佐野氏のインタビューに応え、「津波が病室から見えたとき、津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようと決意した。と同時に、4階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治29年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では2人しか死んでいない。逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が。それが一番の反省点だ。」と語っています。

 山下氏は翌日の午後、助かった他の患者とともに自衛隊の大型ヘリで救助されましたが、インタビューの中で、「孫のような若い隊員が冷え切った身体を毛布で包んでくれ、その上、身体までさすってくれ、やさしさが身にしみて泣いちゃった。鬼の目に涙だよ。これまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。」とも語っています。興味深い話ではないでしょうか。 

  * 過信を生んだ要塞

 震災後初めて「万里の長城」の異名を持つ巨大防潮堤に守られてきた宮古市田老地区に立ち寄りました。完成直後の30年前、この要塞を見たときには驚きましたが、海岸側と陸側にX字型に築かれた海面から高さ10m、総延長2.4qの国内最大級の巨大な防潮堤が打ち砕かれ無惨な姿を見せていました。

 田老地区は歴史的に津波の甚大な被害をたびたび受けており、近年では、明治三陸大津波により死者1千859人、昭和三陸大津波により死者911人を数えています。津波に襲われ壊滅し、時間をかけてまた復興するリサイクルを繰り返してきましたが、田老地区の試みは、これまでの経験を教訓にこの悪循環に楔を打ち込もうとしたものであったはずです。ハードの整備と合わせ、防災教育、津波経験者による語り継ぎ、防災訓練といったソフト面にも力を入れてきています。しかし、今回もやはり同じことが繰り返され、多くの犠牲者が出ました。

 防潮堤の位置、強度に問題はなかったのか、なぎ倒されたとはいえ、どれだけ被害軽減に効果があったのか、既に検証が始まっていますが、避難訓練などのソフト対策の成果がどれだけあったのか、防潮堤やハザードマップが逆に安心感を生み、避難が遅れた可能性はなかったのか、ソフト面の評価も必要です。

 宮古市内の知人から、震災当日、田老地区の高台から撮影したビデオを見せてもらいました。大津波が陸側の防潮堤を乗り越え、地区の中心部を破壊している映像です。津波が水門を閉じた防潮堤間近に迫り、高台から早く逃げるよう声をかけていますが(勿論遠くて聞こえていません)、慌てている様子がありません。津波が防潮堤を越え、猛スピードで地区中心部を駆けあがってきても、事態がのみこめないのか、車でゆっくりと移動しています。

 知人が、昨年2月末に発生したチリ地震津波の直後に岩手県と岩手大学が行った調査結果を覚えていました。田老地区は避難指示に対して避難率が60%と県内沿岸部の中でも低い方であったそうです。今回、立派な防潮堤があるという安心感(過信)が逃げ遅れの大きな要因と分析しています。

 地震・津波に限らず、想定外の事象が発生したときに、ハード、ソフトの防災対策がマイナスに作用する可能性が指摘されていますが、この典型的な事例と言えそうです。

* 警報が安心情報に

 気象庁が、津波警報を出す際に予想津波高の発表は必要か、必要だとすればどのタイミングでの発表が適当か、警報を伝える手法は今のままでよいのか、今回の津波被害を踏まえて検討を始めています。

気象庁のHPをみますと、今回の震災発生3分後に宮城で6m、岩手で3mとする大津波警報を発表。約30分後に宮城で10m以上、岩手で6mに更新し、その後さらに岩手も10m以上と、時間の経過とともに大津波警報の高さを更新して発表しています。しかし、停電などの影響で多くの住民には全く情報が届いていなかったか、或いは、最初の警報しか伝わらなかったようです。私も揺れが収まった直後TVで最初の警報を聞いているうちに停電、明るいうちに少しでも家の中の片付けを済ませようとしていたため、更新情報を知ったのは夕暮れ、ラジオと車のTVでした。沿岸部には既に大きな津波が襲っていました。

田老地区はじめ岩手県沿岸部で被災者に聞きますと、多くの人が最初の3mしか聞いていないと言います。気象庁・消防庁などの合同調査でも、半数近くの沿岸住民が何も情報を入手することが出来なかったこと。また、津波情報を入手していても、警報が更新されたことまでは見聞きしていないと応えている住民が岩手で63%、宮城で74%にのぼることが判明したそうです。

 予想津波高の第一報を沿岸住民が聞いて、予想を最大値と受け止め、避難が遅れた可能性があると指摘されています。警告を促すはずの警報が、これなら大したことないという「安心情報」になった側面があるということです。

 特に、田老地区は前述の通り過信を生む高さ10mの防潮堤もあり、宮古の知人は、「3mという数字を信じて行動が決定づけられたのではないか」とみています。果して、数値なしで非常事態を知らせる方法はあるのか、検討結果が待たれます。 

* 想定外の携帯基地局の機能不全

 携帯電話は地震発生直後暫くは繋がることがありましたが、時間とともに使用不能になりました。過去の災害時でもあったように通話の集中による通信規制が原因かと思っていましたら、後日、電波を送受信する基地局の機能停止が要因であったことを知りました。揺れや津波による施設損傷や停電に加え、基地局の非常用電源のバッテリー切れが広がったためだそうです。従って、基本的には本来通信制限を受けない、家族の安否確認や緊急連絡のための「災害用伝言板サービス」も使えません。デジタル回線の固定電話が停電で役に立たない中、最も必要とされた被災初期に十分な役割を果たしたとは言えません。

 携帯電話の人口普及率は、約1割であった阪神・淡路大震災当時に比べ、約9割と、期待される役割は格段に高まっています。

大震災で、携帯の盲点をつかれた携帯各社は、「電源」と「代替」をキーワードにインフラの再構築に動き始めています。 

* 船守る「沖出し」の明・暗

 津波から逃れるため漁船を沖に避難させる「沖出し」は、船を守るため、各地の漁師たちの間で言い継がれてきた教えですが、この是非について、これまで何の疑問も感ぜずにきました。この大震災で、沖に出て津波を乗り切った船がある一方、波にのまれた船もあったとの報道に接し、同時に、津波で操船不能になったり、砕けた波に巻き込まれたりして転覆する可能性の高い、基本的には危険な行為であるとして、水産庁が「災害に強い漁業地域づくりガイドライン」で対応方法を示していることを知りました。

 ガイドラインは、漁船が沖合にいる場合は、津波エネルギーを凝縮させて大きくなる浅い場所を避けて、水深50mより深い海域に避難する。さらに大きな津波が想定される場合はより深い水域へ避難し、津波を乗り切っても、海上で6時間以上は待機する。陸上や海岸部、漁港内にいる場合は、陸上の避難場所に逃げる。具体的なものです。その上で、50m以深の指針自体は全国的に適用する際の目安なので、地域によって異なる湾の形やもともとの水深、想定される津波の高さを考慮して、詳細の避難海域の設定は各地の専門家の助言を踏まえるよう求めています。

 岩手県や宮城県北部の沿岸は、深い谷が海に沈んで形成されるリアス式海岸のため、港から比較的近い所で水深50m地点に達しますが、仙台湾以南は遠浅のため、水深50mラインは港から30q以上離れていると言われています。

 今回の大津波で、宮城県南三陸町歌津の石浜地区は、沖に出た18隻のすべてが無事港に戻った、「沖出し」の成功例として話題になっています。地震から20分後に港を出、潮が徐々に引き始めたため船外機を斜めに上げ舵を取り、港から約500m沖合、水深30mの地点で最初の津波を乗り切り、さらに沖合に大きな第2波が見えたため、船団は沖合約1q、水深50m〜70mの海域にさらに避難し難を逃れました。船団は、押し寄せたがれきで直ぐには港に戻れず、海上で3夜を過ごし、3月14日の朝に港に戻りましたが、奥行き約350mの湾を出るとすぐ外洋に面し、岸から水深の深い場所までの距離が短い好条件が船を守れた要因とされています。

 一方、宮城県山元町磯浜漁港では、経験のない激しい揺れに漁師たちが沖に船を出すか、陸に逃げるか迷う中、ただ一人沖に出た船が、高台へ避難した漁師たちが見ている中、1q沖合で、引き潮で海の底が見える異常な浅瀬で動けなくなり、その後浜を襲った津波で被災したそうです。磯浜の海は遠浅で、津波の影響を受けにくい目安とされる水深50mの場所まで約32qはあるとのこと。20ノット(時速約37q)出る最新鋭の漁船でさえ1時間近くかかる計算です。数週間後、一人沖に向かった漁師は相馬沖の海底で見つかりましたが、真っ二つに割れた船の片方にロープで体を縛り付けていたそうです。

 両者の明暗を分けたのは、浜の立地や水深、津波の高さなどであったようです。 

* 都市的環境が被害を拡大「多賀城」

 沿岸部における都市的環境が盲点となり、幹線道路上を走行中に車ごと津波に巻き込まれ、近隣の港町にはない、大惨事を招いた多賀城市のケースです。

仙台市に隣接する多賀城市は、海に面するのは砂押川の河口付近だけで、「海の街」といったイメージがありませんが、仙台港を襲った津波が濁流となって不意を突いて市内の幹線道路に浸入、市内の津波による犠牲者185人の大半が道路沿いに集中する事態を招きました。大きな建物が視界を遮る都市的環境による被害拡大事例として注目されています。

多賀城は、869年の貞観地震で、多賀城の正門近くまで津波が押し寄せたとの記録が残っており。市は「洪水・津波ハザードマップ」を全世帯に配るなど、防災に注力してきました。マップでは、津波が仙台港の高松埠頭、中野埠頭と砂押川から浸入し、仙台港周辺と河口の一部が浸水すると想定しており、今回、浸入域はその通りでしたが、浸水域は全く違いました。砂押川を遡上した津波が、河口から約5q上流の国府・多賀城跡の河原に船を打ち上げるほどの威力を持っていたことも大きな誤算でしたが、それ以上に港を襲った津波が大規模工場や大型商業施設、マンションの間をはうように、人と車がひしめく国道45号と県道仙台塩釜線(産業道路)に迫り、しかも、これらの建物が視界を遮り、不意を突かれることは全くの想定外でした。

 仙台港に近い地区では4m超の津波で家屋が倒されるほどの威力があり、それが市内中心部に到達すると、住宅やマンション、商業施設の間の道路を水路代わりになり、広がったとみられています。津波の威力はやや弱まり高さも2mほどであったそうですが、年度末の週末で交通量が多く、地震で信号が止まり、数えきれない車を瞬時にのみ込み、押し流す惨事となりました。気がついたときには車があちこちにぶつかりながら流され、車の中で亡くなった人が多く、また、犠牲者の過半が多賀城を通りかかった仙台など、市外に住む人とのことです。

道路上の車両を両端に寄せ、通行が出来るようになった直後に45号線を通りましたが、押しつぶされたり、逆さになったり、ナンバープレートの外れている車両もある、かつて見たことのない光景にただ驚くばかりでした。確かに、道路沿いの建物は1階部分の浸水跡と車両がぶつかってできた損傷が見られましたが、津波で倒壊したものはありませんでした。

 想定をはるかに超えた今回の惨劇は、沿岸部における都市的環境と車社会がもたらしたものです。ハザードマップの見直しと、沿岸部の大動脈を走る車への防災広報のあり方の点検が改めて求められています。

 

 

3月11日の大震災発生51時間前の9日昼に、大地震の約10qの近いところでM7.2の地震がありました。翌10日にかけても、有感地震が何度か発生しましたが、これらが前震(予震)であった可能性がある一方、それが11日の大地震を誘発した可能性があると見る研究者がいます。

7月以降、いったんは収まっていた余震がまた頻繁に繰り返されています。過去の大地震の後にみられるような、本震から1〜2年後に起きる、1少ないM8程度の最大余震の前触れでないことを願うばかりです。お年寄りの多い我が町内会では、何度か集いを持ち、想定外が繰り返された大震災当日から数日間のそれぞれの行動を思い起こして体験を語ってもらい、備えにどんな問題があったのか反省を踏まえた検証を進め、今後準備すべきことなどの点検を行っているところです。

 30数年周期で起きる宮城県沖地震と今回の大地震との関連については、既報で専門家の意見が分かれていると報告しました。しかし、さまざまな観測データの解析が進み、地震学者の間では、本震発生の早い段階で2度に亘って宮城県沖の陸にやや近い部分が滑り、30年余りで蓄えられたひずみが一気に解放され、宮城県沖の領域でプレート境界型の地震は暫く起きない可能性が高い、との見方が有力になってきています。

 地震国ですので、いずれまた必ず繰り返されます。今回の教訓を忘れず、ハード、ソフトの両面で震災に強い地域を再構築し、次に備える必要がありますが、それにしても、この「大災害を忘れた頃」にやってきてほしいものです。

 いずれにしても、「備えあれば憂いなし」です。心の準備と防災、減災の備えだけは一人一人が普段からしっかりしておきたいところです。

 

以上

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