東北地方大震災の近況報告(第7報)5月11日付

〜津波に備えた先人の警鐘と知恵、脱線を免れた
新幹線早期地震検知システムの紹介を中心に〜


大震災の発生からちょうど2ヵ月が経過しました。

 

(震災ボランティア)

この大型連休中、宮城県内の震災被災地を訪れた災害ボランティアは延べ35千人に上ったそうです。
学校や勤め先の休みを利用して県内外から結集、浸水住宅の後片付け、がれき撤去や泥のかき出し、避難所での炊き出しなどに取り組んでいました。
銀行に勤める娘も3日間、仙台支店行員と手分けして宮城野区内避難所5カ所の炊き出しに出かけましたが、力仕事や炊き出しができない私たち年寄りは、連休の後半数日間近所の方とともに、コンビニのない津波被災地で汗を流す孫娘と友人
10数人の学生ボランディアのため毎日2
食分のおにぎり運びの往復で勘弁してもらったところです。
散髪など一部では供給過剰の分野もありますが、被災地では仮設住宅の整備が始まり、引っ越しの手伝いなど新たなニーズも生まれています。
連休が終わってその数がまばらになったそうですが、まだ引き続きボランティアの力を必要としています。

 

(震災復興会議)

この連休中に宮城県の「県震災復興会議」(議長:小宮山宏元東大総長)、仙台市長を本部長とする「震災復興推進本部会議」、首相の諮問機関「復興構想会議」などが相次いで開かれ、各委員の被災地視察がありました。
特に「県震災復興会議」では、津波で壊滅的被害を受けた沿岸地域の「創造的再構築」を軸に各分野の専門家による
10年後の姿を描いたアイデア満載の提案---例えば、太陽光発電の全戸設置、世界遺産を目指して再生など---がなされ、議論が交わされました。
しかし仮設住宅建設は立ち遅れ、地元の基幹産業・水産業のインフラ復旧の目処も立っておらず、津波で被災した民有地の原状回復と住宅建設をどこまで国が支援するのか、仙台平野の農地回復をどう進めるのかなど、政府の方針は示されないままであり、さらに仮設でない本設の住宅をいつどこで建ててよいのかも皆目見当がついていません。
報道で知る限りではやや理想論に近い議論であったようです。
住まいとなりわいを取り戻し1日でも早い生活設計の立て直しを望んでいる被災地域住民からみて、アイデア満載のこの提案が果して被災地と真に向き合ったものであると受け取ったかどうか、いささか疑問に思わざるを得ません。
北大大学院の越澤教授が紙面で「今後3年以内の“迅速な原状復旧”こそが“真の復興”であり、“理想的な”復興のために
10
年待てでは、復旧・復興に向けて頑張る気力が起きず、働き手の壮年層は職と収入を求めて都市圏に流出してしまい地場産業は崩壊し、お年寄りは希望をなくし生きる気力を失ってしまう。地元は机上の復興プランが一人歩きしないのか、不安に感じているはずだ。」と話しているのを見ましたが、何度か津波被災地を垣間見たひとりとして頷けるところです。

 

(資本ストックの被害額推計)

日本政策投資銀行が、今次大震災被災4県の資本ストックの被害金額を県別/内陸・沿岸別に推計し、428日にリリースしました(福島第一原発事故がもたらした様々な被害は含まれていません)。

これによりますと、4県合計で164千億円、うち、宮城県の被害額は65千億円と推計しています。県の本年度一般会計当初予算8.400億円の実に7.7倍強です。
しかし、これは、生活・社会インフラや住宅、製造業、農業・水産業などの資産(設備)被害の積み上げであり、県内で
1年間に排出される一般産業廃棄物の23年分に相当する大量のがれきや、県内自動車登録台数の約1割を占める146
千台の被災車両、土砂など、いわゆる震災廃棄物の撤去・処理費用、農・漁業などの休業や工場、店舗などの操業停止・営業休止による損失、さらに、復旧・復興費用などは含まれていません。
その意味で、未だ被害の全貌が把握し切れておらず、企業の経済活動を含め旧の営みを取り戻すまでにどの程度の時間、費用を必要とするのか、判然としていないのが実情であります。

 

(市内の最近の状況)

相次ぐ震災訃報広告

新聞用紙を主力とする日本製紙の被災(岩沼工場は一部復旧しましたが、石巻工場は電気系統を中心に激しく損傷し、さらに地盤沈下と高潮被害が続き復旧見通しが立っていません)の影響もあり、河北新報は今でも多い日で22ページです。
その河北新報がちょっと前まで1面の半分を使って連日報道していた「亡くなった東北の方々」、「身元不明東北の方々」の氏名掲載が数少なくなってきました。
まだ県内だけで
7千人近い行方不明者がいるにもかかわらず行方捜索と安否確認が難しくなり、遺体安置所に収容されている身元の確認がだんだんと困難になった証左です(発見された遺体の身元確認率は85%)。
その反面、
4月下旬頃から震災で亡くなった家族の名前を連記した訃報広告「311日の震災により永眠しました」が目立つようになりました。10家族ほど出ている日もあります。
数日前、祖母、父、母、妻、二女を亡くした岩沼市の知人の訃報広告がありました。
現実を直視できず、また、近所の方の安否確認がままならない中で弔うことを憚っていましたが、
1
カ月余を経てようやく心の整理がつき葬儀の段取りにこぎつけたとのこと。
ただただ冥福を祈るしかありませんでした。

赤のスッテカー「危険」の立ち入り禁止建物

これまで内陸部の被害状況については、沿岸部の津波被災が甚大であっただけに、丘陵地の「山津波」を除けばライフラインや交通インフラの損傷情報が報道される程度でありました。
しかし、2ヵ月が経ちようやく内陸部の特に都市型施設の被災状況などが報じられるようになり、改めて驚かされています。

丘陵地帯の「山津波」被害について第3報で触れましたが、その後市が市内の宅地1.830ヵ所の地盤状況調査を行った結果、地滑りや地殻変動が目立ち危険と判断される宅地が330ヵ所あることが分かりました。避難を余儀なくされている地域も多くあります。

また、危険宅地外でも、立ち入り禁止の「危険」(赤いスッテカーが貼ってある)建物が約1.000件、亀裂や落下が心配される「要注意」(黄色いスッテカー)建物が約2.000件あるとのことです。
個人商店やマンションの一部は覆っていたシートを外し取り壊しや修理に入っているところもみられますが、民家は全くの手付かずの状況です。
瓦屋根のてっぺん部分「ぐし瓦」を雨避けのブルーシートで覆い風対策として両側に重しをぶら下げている家が目立ちますが、これも岐阜県などから多くの瓦職人が入ってきているというものの、手が回らないようです。

危険1
瓦屋根のブルーシートと隣の危険民家
危険2
東北労金支店
危険3
傾いている寿司屋

公共施設の被害が甚大、全ての音楽ホールが閉館

東京エレクトロンホール宮城(県民会館)、仙台市民会館、イズミティー21、仙台市青年文化センター、各区にある文化センターなどの展示ホールや音楽ホールは軒並み天井落下や配管損傷の被害を受けました。
一部展示ホールや会議室の貸し出し再開にこぎ着けた施設もありますが、コンサートなどは仙台フィルの本拠地として最も復旧工事を急いでいる青年文化センターの再開(
7月中を予定)まで開けません。
県民会館で予定している年末恒例の「第九」演奏会も開けるかどうか懸念されています。
民間の施設では電力ホールが使えるようになりました。
4
月末になってようやくホームで試合ができ被災地に元気を与えた楽天「Kスタ宮城」、ベガルタ仙台「ユアテックスタジアム仙台」も応急復旧工事を急いだ結果です。

なお、仙台フィルは暫く仙台での定期演奏会が開けないため、サントリーホールをはじめ全国各地に招かれ震災復興支援コンサートを開いています。
また、4月中旬から市内常盤木学園のシュトラウスホール(
300席)を使わせてもらい無料による復興定期演奏会を始めたほか、楽団員が避難所を巡って音楽を届けるボランティア活動を精力的に行っています。
この大型連休中に国内外の
100近いアーティストが集って東京国際フォーラムを主会場に開かれた「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2011」は、私も震災復興支援スペシャルコンサートなどを聴いてきましたが、本年は、「とどけ!音楽の力、広がれ!音楽の輪」をキャッチフレーズにし、期間中30
万人から募った義捐金と入場料の一部が東京都を通して被災地に贈られることになっています。

また、今週から数度に分け、世界的なピアニスト小山実稚恵さんが宮城など被災県の津波被災地避難所等を回ってピアノ演奏を届けて歩くそうです。
野球やサッカーほど注目されていませんが、音楽も大きな力になっています。

  郵便局
仙台長町郵便局 (「危険」立入禁止)

 大学の施設被害拡大、研究活動に支障

各大学は、新幹線など交通網の再開によりこの連休明けから学部ごとの入学式を行うなど新年度が始まりました。
各大学とも施設に被害を受けていますが、その中でも東北大学の被害は立ち入り禁止の建物が
28棟に上るなど、研究機器を合わせて被害総額は770億円に及んでいるといわれ、研究活動にも大きな支障が出そうです。

 都市ホテルの半数は未だ宿泊再開できず

ホテルにも建物や設備などに被害を与え、営業を再開できたホテルも1ヵ月以上の休業を余儀なくされました。
市内の都市ホテルは、ここ1〜
2年の間に仙台ホテル、仙台エクセルホテル東急、ホテル仙台プラザなどが廃業し数少なくなっていますが、連休明け現在でも、都心部の仙台国際ホテルは客室への給湯設備の損傷などが大きく1階ラウンジのみの営業、ホテルコムズ仙台(旧三井アーバン)は外壁と客室の損傷、三菱パークタウン内のロイヤルパークホテルは建物が傾くなどして、いずれも補修工事中です。
再スタートを切ったホテルでも頼みは復興支援関係者であり、観光客を含めた一般客の利用は戻っていません。
ビジネスホテルは、ルームバスなし(大浴場有)や外壁にシートを巻きつけ工事の安全を確認しながら営業しているホテルもみられますが、災害支援や復旧事業関係者が宿泊の
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割以上を占め、暫くは予約で満室状態だそうです。

 郊外型大型店の脆さ露呈

揺れによる郊外型大型店の建物被害が相次ぎ、落下物によって死傷者も出たところから、空間を大きくとった鉄骨造りやつり天井の脆さが露呈し問題になっています。

被害状況を見て歩きましたが、イオン、西友などのショッピングセンター、生協などのスーパーマーケット、泉区や宮城野区のアウトレット、ニトリや東京インテリア家具、ヤマダ電機やケーズデンキなどの家電量販店、ホームセンターなど数え上げられないぐらいです。
これが長期間にわたる物不足を惹起した要因の一つでもあります。

天井、つり天井、窓ガラス、横壁が崩壊し落下、未だに営業再開の見通しが立たない店舗もあります。
建物の骨組みに当る部分は、建築確認の際に県や民間の検査機関で適合判断を受けますが、落下の危険があるつり天井や外壁など非構造部材は判定の対象に含まれていないそうです。
郊外店で目立った被害の多くは、この非構造部材の落下であり、建物が耐震構造の基準を満たしていても、非構造部材の固定が今回の大地震に耐えるには十分でなかったとみられています。

ヤマダ電機は東北の112店が被災し、うち51店が営業停止に陥ったそうです。
4月中旬に仙台南店の被害状況をみましたが、いつも利用していた1階駐車場の天井、横壁が落下していました(後で知ったのですが、2階の店舗内も天井が落ちたとのこと)。
ヤマダ電機郊外店の特徴は店舗
1
階の大きな空間を柱で支え駐車場にしている点にありますが、この大きな空間が揺れには弱かったようです。被害を受けた店舗はいずれもこのタイプです。

国交省も関心を寄せており、今後建築基準法改正の有無を含め検討の対象になりそうです。

なお、市内にはシネマコンプレックスが6館ありますが、営業を再開したのはまだ2館に過ぎません。

ラーメン店
ブルーシートを外し工事に入った西友前のラーメン店
モール長町店
西友「モール長町店」内
専門店の内部は未だ補修未了
スポーツ用品店
「要注意」建物(マンション1階スポーツ用具店)

 未だ続く多くの道路不通

市内内陸部の県道、市道は6日現在まだ60ヵ所が不通です。
がれき堆積、道路損壊、道路陥没、法面崩壊、民間所有物倒壊の恐れなどが原因です。
市中心部
4号線の五橋周辺は、NTTビルの国道に面した壁面崩落補修工事と私立病院前の道路陥没、出水が未だに繰り返し続いており、片道3車線のうち12車線が使えず、定期路線バスも迂回運転するなど、朝晩のラッシュ時には大混雑です。
国道バイパスや一般道も橋梁の繋ぎ目の部分などの段差はそのままになっており、あちこちに段差注意、徐行の立札があります。
山形自動車道も村田JCから川崎ICまでは段差が多く、時速
50
`制限中です。

 避難所に2.000人、仮設住宅の募集要件見直し

市内の避難所は5つの区で合わせて21ヵ所に集約されました。避難者数は2.000人。このうち、青葉区、太白区、泉区の約150人は「山津波」被災者です。

市内の仮設住宅は既に新規プレハブ住宅、公務員住宅、民間社宅等を含め3.000戸を目標にし、既に約2.000戸を用意して入居募集に入っていますが入居が進んでいません。
あすと長町のプレハブ住宅(写真添付)への申し込みをコミユニティー(
10世帯以上)申し込みに限定したことや、民間賃貸住宅で高齢者や障害者のいる世帯が家主から断られたケースが出たためです。
津波の被害を受けた沿岸部から遠い立地環境なども敬遠される要因になっているそうです。
職場や通学校が分かれているだけに同じ地区の住民とはいえ、
10世帯をまとめて応募するのは現実問題として難しく、市はコミュニティー維持を原則としながらも、今月9
日からの2次募集に当り世帯単独申請も受け付けることに募集要件を変更しました。

  仮設住宅
仮設住宅あすと長町

 幼い心に震災の影、震災孤児・震災ストレス

震災孤児(高校生まで)については既報でも触れましたが、被災地3県で130人余、うち宮城県だけで57人と言われていますが、まだ実態は不明です。

ボランティアで避難所に行った娘たちの話では、地震や津波のショック、生活環境の変化などから、ストレス反応を示す子供も少なくないそうです。
幼い心と向き合う家族や教師、周囲の人たちの寄り添い方が大変大事になってきています。

避難所生活が長くなり、避難所のエコノミー症候群も問題になっており、専門家による検査が始まっています。

 離職者が急増

宮城県内で震災後37.000人が離職票や休業票の交付を受け、失業手当を受ける手続きを始めていると、宮城労働局が発表しました。
ハローワーク仙台では
6.000
人が職を求めているとのことですが、職があっても多くは県外でありミスマッチが続いています。

 (山間部を襲った津波、津波に備える先人の警鐘、知恵)

大津波がもたらした沿岸部の甚大な被害と悲惨な状況が繰り返し報道される中、警戒心の薄い山間部へも津波襲来があったことや、津波に備える先人の警鐘や知恵が紹介されるようになりました。

一昨日、津波で亡くなった知人に花を手向けるため岩手県大槌町に行ってきました。
海底までの深さでギネスブックにも登録された総延長
1.960m「世界一」の釜石港防波堤は、無残な姿に変わり果てていました。
それでも、港湾・空港技研の調査によりますと、この防波堤は、市街への津波の到達を
6分遅らせ、津波の高さを4割、遡上した高さを5割抑えたということで、市民はこれがなかったらもっと悲惨なことになっていただろうと話していました。
一方、
800人の死者と500人の行方不明者を出した中で、小中学生の犠牲者は日ごろの訓練が生き5人に止まったそうです。
宮古市田老地区の2重に守るように整備された高さ
10m、延長2.4
qの巨大な防潮堤を見て驚いたことがありましたが、津波はこれを越え、今度も多くの死者と行方不明者を出しました。
防波堤、防潮堤などのハードに頼りがちな防災の限界と、防災教育・訓練などといったソフトの組み合わせで対策を考えることの大切なことを改めて知らされたところです。

“津波は海から来る”という先入観が吹っ飛ぶ川への大逆流

津波が仙台平野を横切る名取川の河口から約6q上流の広瀬川まで逆流し、太白区でも川沿いの土手などに浸水したことは第4報でお知らせしました。

岩手県を源流とする北上川でも石巻の河口から49qの地点まで遡っていたことが水位計の分析で判明したそうです。
17km地点にある高低差3
m以上の堰(旧北上側との分岐点)を乗り越えての遡上です。

今回の震災による大津波は、海が見えない場所にある山あいの集落ものみ込み多くの犠牲者を出しました。
海岸線から離れているにもかかわらず、津波は河川をとてつもない破壊力を保ちながら遡り、警戒心の薄い山間部を襲ったとのことです。
宮城県内では、国道
346号をのみ込みながら4q遡った気仙沼市・本吉内陸部の各山間集落(津谷川と支流・馬籠川)、南三陸町志津川小森集落(八幡川)、女川町清水集落(女川)などが注目されていますが、いずれも過去の地震で津波犠牲者を出したことのない場所。研究者の調査が始まっています。

先人の警鐘が地区を救う

「明治三陸大津波」で壊滅し、当時の村長の指示で海抜2030m前後の高台に集団移転した大船渡市の本吉湾地区の中心となる集落(約100世帯)は、戦後に低地に建てた民宿2軒などが流され海辺で作業していた男性1人が行方不明となりましたが、津波は集落に達せず、犠牲者も皆無であったそうです。
明治三陸津波の際に津波が到達しなかった地点に村の下方を意味する「下通り」(それが今に残る県道)が造られ、家を再建する場所は下通りを目安とし、代々親から教訓として言い伝えられてきました。この集落の住民にとって今は教訓と言うより常識だそうです。

かつて、宮古市重茂の姉吉漁港の坂道を1qほど上った海抜約60mの高台にある石碑を見たことがあります。

「此処より下に家を建てるな/ 明治と昭和津波も此処まで来て部落は全滅/ 生存者僅かに3人と4人のみ/ 幾歳経るとも用心あれ」。このような趣旨の「大津浪記念碑」です。
石碑は昭和三陸津波の後、住民の浄財で建てられたものです。

今回の津波は石碑の70m手前まで迫ったそうですが、沿岸部の家々が津波で押し流された宮古市でここ姉吉地区の建物被害は1軒もなかったとのこと。

先人の警告を刻んだ石碑の教えが、これを守り続けた住民を救いました。


先人の知恵が浸水を防ぐ

東北大学の東北アジア研究センターの平川教授グループが、国土地理院が分析した津波浸水状況図を宮城県南の旧街道や宿場町の地図と照合しました。
その結果、津波の浸水が江戸時代の街道や宿場町の手前で止まっていたことが分かりました。
グループ作成の右の地図資料をご覧ください。
現在の岩沼市にあった「岩沼宿」から水戸へと続いている、太平洋の主要街道・浜街道のうち、岩沼宿から福島県境山元町の「坂元宿」までの街道と宿場の大部分がわずかに内陸部に位置し、被害を免れています。浜街道周辺はほぼ
400年おきに津波に襲われ、1611年には慶長三陸津波が発生し、仙台藩領内でも1783人が亡くなったという記録が残されています。
慶長津波を受け、交通や流通の結節点として、人が密集する地域の要衝である街道や宿場を今の位置にした可能性があるとのことで、このグループでは今後仙台以北の沿岸部についても詳しく分析するそうです。

なお、このグループの調査成果を受け、福島県在住の郷土史家が福島県内津波浸水域と浜街道(現在の国道6号)のルートを比較したところ、宮城県南沿岸部と同様に、相馬市などで津波が国道6号で止まっていたことが判明したとの報道がありました。
グループの平川教授は、「先人が自然災害の教訓をどう生かしていたかを調べ、この知恵を今後の復旧に生かすべきであろう」と話しています。

浸水域

東北新幹線の早期地震検知システムが機能

大地震は、東北新幹線を直撃しました。電化柱の損傷や架線切断など、47日深夜の余震と合わせて1.750ヵ所、被害は最大震度を記録した宮城県南に多く見られたそうです。
ただし、騒音対策をかねて東海道・山陽新幹線に比べるとコンクリートを厚くし頑丈な構造にしていたこと、各地で大きな地震があるたびに耐震性を見直し、耐震補強を重ねてきたことから、高架橋の倒壊やトンネルの崩落といった致命的なダメージはありませんでした。

また、地震発生当時、東北新幹線は27本の列車が乗客を乗せて走っていましたが、いずれも脱線せずに停止しました。
地震をいち早く検知するJR東日本のシステムが作動したからと言われています。

JR各社は、気象庁のシステムと連動させたうえで、さらに独自の地震計を設置してカバーしています。
東北新幹線は沿線のほかに、太平洋沿岸にも岩手県宮古や宮城県牡鹿半島などに
9つの地震計を設置し、揺れをいち早く検知して列車を減速させる「早期地震検知システム」を備えています。
地震が発生した場合、まず初期微動(P波)が地表に到達し、その後数秒(〜+
10数秒)遅れて主要動(S波)が到達するそうですが、このP波をいち早く検知しそれを直ちに発信することができれば、主要動が到達するまでの数秒(〜+10数秒)の間に、安全を確保するための対策を講じることが可能になります。
今回は、東北新幹線の線路からおよそ
50q離れた震源近くの牡鹿半島の地震計が最も早く、午後2473秒に運転中止の基準となる「120ガル」という地震の加速度(P波)を捉え、システムが自動的に架線を停電させ、走行中の新幹線が一斉に非常ブレーキをかけて減速を始めたそうです。
このうち、線路沿いの地震計が最も大きな揺れを観測した仙台駅と、1つ北の古川駅間を走行していた「はやて
27号」と「やまびこ61号」のデータを解析したところ、これらの列車が非常ブレーキをかけた9秒から12秒後に最初の揺れが始まり、110秒後に最も強い揺れが起きていたことが判明しました。
線路に揺れが到達する
9
秒前に非常ブレーキが作動していたということです。
この最も強い揺れが起きた時の新幹線が何キロまで減速できていたかは分かっていませんが、JR東日本は強い揺れの前に減速を始めていたこともあって、脱線を免れたとみて、詳しくデータの解析を進めているとのことです。

大地震でJR仙台駅の新幹線ホームも300mにわたって張られていた天井板が剥がれ、落下しました。余震による危険性に配慮し残りの部分も含めてすべて撤去し、新幹線の再開に合わせ天井の配線などはむき出しの応急復旧を果たしました(新聞写真添付)が、仙台駅構内は依然として、復旧工事に伴う立ち入り禁止区域が残り、外壁の安全確認のため、駅舎を覆うシートも5月中は現状を維持する方針です。

まだ減速運転の臨時ダイヤが続いており(通常に比べ仙台〜東京間で30分以上)、完全復旧までにはいま暫くかかりそうです。

仙台駅

 

県民の今の大きな関心事(心配事)は、@、30年以内の発生確率が99%と想定されてきたマグニチュード7.5級の「宮城県沖地震」がこれで終わったのか、或いは今次大地震とは別に起きるのか、
また、A、「最大余震」が本当にあるのか、この2点ではないでしょうか。

広い震源域を持つこの大地震によって、宮城県沖のプレート境界で、およそ37.1年間隔で発生してきた「宮城県沖地震」の断層がともに滑って破壊されてしまったのではないか、とも言われていますが、地震学者の確かな見解は聞こえてきません。
47日に発生したマグニチュード7.1
の大余震が、観測データからみて想定された「宮城県沖地震」ではなかったかとの見方もありましたが、精査の結果、震源の深さから海側のプレート内と考えられ、異なるタイプの地震である公算が大きくなりました。
引き続き「宮城県沖地震」を心配して行かねばならないのかもしれません。

最大余震についても専門家は警戒が必要と言いますが、過去に起きた大地震のように、1〜2年後に本震から1少ないマグニチュード8程度の最大余震が果して本当に起きるのか、起きるとすればいつ頃なのか、当然ながら誰も答えを出してはくれません。

結局は、起きないことを念じながら、今回の大震災の経験を教訓に、心の準備を含めハード、ソフト面の出来るだけの準備をしておくことに尽きそうです。

 

この第7報で一区切りつけます。震災発生以来いろいろとご支援とお励ましをいただき、また、近況報告にお目通しをいただき感謝申し上げます。

                511日  渡辺 陽一

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