◆特別寄稿◆ 震災レポートNo.12 (2013/ 8/11) 進む「風化」進まぬ「暮らしと地域の再生」 〜 宮城県を中心に、この1年の動きを追って 〜 渡 辺 陽 一 * はじめに 東日本大震災から2年5ヶ月が経過した。 先月大雨のあった数日後、現地再建を基本とする市の方針に住民の同意が得られず進展がみられない、仙台空港北寄りの港まち、名取市閖上地区に行ってみた。 津波で無二の親友を亡くした地であり、復興の行く末を見届けにたびたび訪れているが、途上の「災害危険区域」指定の線引きとなる工事車両が行き交う県道塩釜亘理線両側の荒れはてた圃場は、1mの地盤沈下が影響し、またも池と化していた。 漁港周辺の海岸堤防の復旧が始まり一部完成していたが、約2.100世帯、5.700人が暮らしていた港まちは、がれきの撤去されたはだかの荒れ地となって以来時が止まったままである。 政令指定都市としての事業推進力を持つ仙台市や、リーダーに人を得て徹底的な住民の話合いで県内における防災集団移転促進事業のトップランナーとなった岩沼市などに続き、被災自治体の各地において土地区画整理事業などで高台移転の造成、低地のかさ上げ工事が始まりつつある。 しかし、上物の建設までには時間を要し、沿岸部の被災地には「住まい」と「働く場」があるまち、その当たり前の風景が未だ現れていない。 新政権発足を機に復興庁の体制を見直し、復興予算も積み増しされた。 しかし、国と自治体の復興計画の調整や住民合意の形成に時間がかかっていること、予算執行を円滑に進めるための制度的な後押しが足りなく、この緊急時に多くは既存ルールで対応していること、加えて、深刻化する人手・資材不足、資材価格・労務費の高騰なども重なり、膨大な予算を使い切るだけの態勢が整わない。 岩手、宮城、福島の3県で昨年度の予算の約35%が使い切れなかったという。 このような中、6月宮城、福島両県を視察した黒田日銀総裁が取材陣に語った、「復旧・復興は相当進んでいる。復興需要に支えられ日本で一番経済活動が前進している地域だ。」の一言に、県民の多くは違和感を持ち波紋を呼んだ。 地元紙も「そう実感する人は東北にいるのか。」とかみついた。 現に、8月4日に日経新聞が行った電子版アンケート調査でも、「復興は順調・おおむね順調」と答えた人は17%にとどまり、8割強が懐疑的な見方を示した。 被災地と別の日常にいる人の思い込みが「風化」を加速させかねない。 今一番怖いのは「風評」が残ったまま「風化」が進み、復興の足かせになることである。 今、被災地で何が起きているのか、何が問題になっているのか、「住まい」、「東北の基幹産業(水産、農業)」を中心にこの1年の動きを追ってみた。 * 仙台都市圏へ「人口流失」 復旧・復興の途上にある沿岸部の被災市町が最も頭を悩ましているのは、人口流失に歯止めがかからないことである。 家や働き場を失った若い世代や復興従事者の生活拠点として、特にこの1年仙台都市圏の人口増加が著しい。 中でも仙台市は震災直後と比較し2万人以上が増え、6月末現在で106万6.079人と過去最高を記録し、秋田県の人口(105万2.698人)をも上回った。 半面、この2年間に女川町の22.08%(2.200人)を筆頭に山元町、南三陸町の減少率が10%を超え、最大の被害を出した県内第2の都市石巻市も、震災犠牲者4.000人を加えると実に全人口の10%(16.000人)が減少した。 沿岸部の高齢化がさらに進み、かつ、将来被災地が旧に復しても都市部の利便性から被災地に戻らないことが考えられ、担い手不足に拍車がかかる懸念がある。 この人口減少の現実は被災地の僅かな望みをもしぼませる大きな問題であり、ハード面の事業と合わせ、なりわい再開までの血の通った生活支援策の拡充が急がれているところである。 * 海岸堤防「完成率1 %」 多重防御の要である海岸堤防の復旧がようやく本格化した。 県は復旧・復興進捗状況を着手率で発表してきたが、設計業務に入った段階で着手と捉えるため数値が実態とかけ離れているとの指摘があり、この6月から完成率を加えた。 これによると、道路や橋、港湾など公共土木施設全体の復旧完成率は6月現在55%と発表されたが、津波から守る多重防御施設の復旧は遅れている。 多重防御施設は海側から陸に向かって、海岸堤防、海岸防災林、災害危険区域内に整備する公園(丘)、道路のかさ上げなどで計画しているが、最初の砦となる海岸堤防の復旧完成率は未だ1%に過ぎない。 宮城県の海岸線総延長は827q、このうち堤防・護岸などの防潮堤に守られているのは156qで、うち101qが損壊した。 計画では堤防の幅を広くし高さ7.2mまでかさ上げするもので、20mを超える津波が押し寄せた女川町、気仙沼市の海岸線の一部ではもう一段のかさ上げを予定している。 このため、砂浜が狭くなる、海が見えない、生態系が変わるといった問題提起があり、水産と観光で活路を求める気仙沼市などでは、市街地のかさ上げ、避難所・避難通路の確保などを優先すべきとの声も上がる。 一方、仙台空港海側のように逃げる高台のない沖積平野の仙台湾南部海岸総延長約60q(仙台市〜福島県境)では、「防災」から「減災」へ向けての防潮堤を受け入れなければまちづくりが進まないジレンマもあり、2015年度末の完成を目処に他に先駆けて着工している。完成率はまだ低いものの着手率は約65%であり、現地で見た目にも点から線になりつつあるとの感じを受けた。 櫛の歯が欠けたように無惨な姿をさらしている海岸林は、伊達政宗時代から整備されてきた“白砂青松”の再生に向けた息の長いクロマツ育苗事業が始まっている。 「災害危険区域」指定の線引きとなる道路のかさ上げは、県内だけで総延長約50qといわれている。 7月末に仙台市が宮城野区と若林区にまたがる沿岸部のおよそ10qの県道で計画している高さ7mのかさ上げ事業の実物大モデルを設置し公開した。 片道1車線で幅7〜9m、法面を含めると幅30〜40mとなる。 今後地権者の合意を得て年度内には着工し早ければ5年以内の完成を目指す。 * 住宅再建「長い道のり」 住宅を失った被災者にとって早く生活の拠点を取り戻すことが一番の願いであるが歩みは遅い。 6月末の県内の仮設住宅暮らしは、進まない現状に焦りと諦めから他所で自力再建したり、被害が少ない住宅を修理したりして仮設を引き払い、ピーク時より減少しているが、民間賃貸住宅借上げ(みなし仮設)を含めて約4万世帯、9万7千人、県外避難者を加えると未だ10万6千人(ピーク時12万7千人)を数える。 長期化に伴い、みなし仮設が多い仙台市などでは、家主の事情で仮設の契約が打ち切られる新たな問題も起きている。 阪神・淡路大震災では倒壊や焼失の跡を片付けて「土地区画整理事業」、「市街地再開発事業」の“現地再建”手法がとれたが、今回は基本的に現地再建が難しく、計画されている住まい再建事業の80%が高台・内陸部への移転を伴う「防災集団移転促進事業」である。 「防災集団移転促進事業」は県内12市町193地区を移転対象として計画され、国の事業認可(復興予算の投入決定)を得ているが、移転適地確保の難航に加え、移転先用地の造成などを行う「土地区画整理事業」(県内34地区で計画)に携わる技術者や資材の不足、採算割れを理由とした公共事業の入札不調といった新たな壁が立ちはだかりスピード感に欠ける。 当然その後にくる上物建設はその分遅れることになる。また、国の認可を得ても、地区世帯数に見合う一団の移転適地が見つからないことや、道路1本を挟んで集落の一部が災害危険区域から外れることで分散移転を余儀なくされるため、コミュニティー維持を求め住民の同意が得られないケース、ようやく自宅を修理して暮らし始めたが、土地区画整理事業で土地利用再編を進める自治体の方針転換で立ち退きを迫られ立ち往生するケースなど、永住できる環境づくりに向けた住民の合意形成に時間を要している所も多い。 沿岸部の被災地の多くは震災前から過疎化が進んでいた地域であり、一部の自治体は、新たな市街地を形成できる集団移転が過疎化対策の一つと捉えていることも否めない。 その分少数意見が吸い上げられない一面もあるようだ。 自力再建が困難な被災者に対する「災害公営住宅」は、県内21市町103地区で約1万6千戸の整備を計画している。 やはり用地の確保に手間取っており、着工は約1割、完成は82戸(0.5%)にとどまっている。 仙台市は3.000戸を整備するが、入居希望者の4分の1は震災後に移り住んできた人たちであるという。 自治体独自の住宅再建支援策としてローンの利子補給を打ち出している市町もあるが、ローンが組めない高齢者は救われず、災害公営住宅を希望する被災者が今後さらに増えるものとみられている。 約5.500カ所で地滑りや擁壁崩壊などの、いわゆる「山津波」が起きた仙台市西部の丘陵部宅地は、国が救済措置を講じ半数の箇所で復旧工事が進んでいる。 しかし、これも宅地復旧後の住宅再建資金手当てが問題になっている。 また、仙台市内約1.400棟の分譲マンションのうち、100棟以上が「全壊」の罹災判定を受けた。 うち5棟が公費解体の対象となったが、所有者の同意取り付けがネックとなり再建は僅か1棟とのことである。 暮らしの再生事業で県内のトップランナーとなった岩沼市、未だに手付かずの名取市閖上地区を紹介する。 * 優れたリーダーのもと「民意吸い上げ」岩沼市 仙台市からおよそ20qの岩沼市、約10qの海岸線には3階建て以上の建物はほとんどなく、7〜8mの津波により沿岸部の6地区で多くの犠牲者を出した。 復興の取り組みに当たっては、震災直後故郷の惨状を目の当たりにした岩沼市出身の石川幹子中央大学教授(元東京大都市工教授)が自ら買って出て市復興会議議長に就き、問題の所在の分析と仙台市に近く自然と共生する田園都市岩沼市の特性を生かした復興理念について住民による徹底的な話し合いを主導し、震災後1年で「愛と希望の復興」を基軸としたマスタープランを作り上げた。 そのうえで、6地区338世帯960人が山側に2〜5q離れた20fを造成しまとまって移転する集団移転事業と、減災と鎮魂のためにがれきを利用して高さ10mの丘(避難所)と森(防潮堤)を15個造成し、これに3年間で20万本を植林する「千年希望の丘」事業が始動した。 集団移転事業は、昨年5月県内最初の事業として認可を得て区画整理事業による造成が始まっており、盛り土の確保に苦労しているが、来年早々には商業施設と合わせ住宅の着工が一部可能とのこと。 地縁血縁を頼りに民間主導で数戸の集団移転を進めている気仙沼市の浜のケースを除くと住宅建設にこぎ着ける最初の事業となろう。 希望の丘もこの6月一番犠牲者の多かった集落に第1号が完成、植樹祭イベントが行われた。 住民集会では「災害公営住宅も同じ地区内に作りコミュニティーを守る」、「建物の色とデザインの統一で景観を美しく」などの意見が出され、災害公営住宅223戸も同敷地内に整備することになった。 6月上旬仙台市内で、石川さん、寺島三井物産戦略研究所会長、奥山仙台市長の鼎談が催されたが、その会場で出会った知り合いの岩沼市職員は、「我々はあくまで事務局」と裏方に徹したことを強調していた。 * 現地再建にこだわり「民意読めず」名取市閖上地区 津波で住民5.700人のうち740人の犠牲者を出した仙台市隣接の名取市閖上地区、県内の被災自治体で、集団移転、土地区画整理事業、災害公営住宅のいずれの工事も未着手なのは名取市だけになった。 市は震災のあった2011年のうちに早々と、土地区画整理事業でこれまでの居住区域の一部70fをかさ上げして再興する“現地再建”の方針を決めた。 ここまでは県内のトップランナーであったが、その後歩みは失速した。 市はこの方針のもと、海抜5mにかさ上げしたモデル台地を造成して住民の説明に当ってきたが、大津波襲来の記憶が生々しく、恐怖を拭えない若い世代を中心に、住民無視の行政主導に対する反発と内陸部への移転を希望する声が多数を占め、合意取り付けに失敗した。 ここまでは昨年のレポートで報告済みである。 その後市は、現地に戻る希望者が少ないことに考慮し、かさ上げ面積を45fに縮小するとともに、災害危険区域に指定された被災世帯の集団移転事業を土地区画整理事業区域内で併用する案を示したが、なお住民の同意が得られず、この7月になって新たに13fを災害危険区域に組み入れ、かさ上げを32fに再縮小するとの新たな方針を市議会に示すに至った。 この迷走と方針転換の背景には、従前より漁港と田園地帯の閖上地区を市街化区域として重点投資しており、新たな市街地をつくることによる二重投資と分散による過疎化を避けたい市の考えと、1f当たり夜間人口40人以上確保というかさ上げ事業費の国の予算措置要件がある。 市は災害公営住宅を内陸部に整備する方針にはあるが、公営住宅を望まない被災者についてはあくまで閖上地区で再建するよう拘り続け、この5月に改めて住民の意向調査を実施した。 しかし、市の意に反して、地区に戻る意向を示した住民はさらに4分の1にまで減少、国の予算措置要件を満たさない可能性が出てきた。 このため、かさ上げ面積の再縮小に舵を切ったわけであるが、引き続き、土地区画整理事業区域より内陸部に集団移転先を設けるよう求めている被災者の希望には応えておらず、閖上地区の将来像が混沌としている状況に変わりはない。 地区出身の市長は、「多くの人口を確保しなければ閖上の復興は出来ない。」と説明しているが、市民からは、目の前の現実に苦しむ被災者の生活再建と将来を見通したまちづくりの優先度を誤ったとの批判もあり、まだまだ紆余曲折がありそうである。 * 水産業「戻らぬ販路、人手」 県内で被災した142漁港は何処も地盤沈下している。 復旧着手率は58%、復旧完了は14港である。 稼働漁船隻数は震災前の74%まで戻った。 石巻港など県内主要5漁港の2012年度水揚量は、震災前の73%まで回復している。 しかし、応急修理、復旧の繰り返しでたどり着いた浜再建の道のりは険しい。 水産加工業は、かさ上げ工事の進展により、例えば石巻市の場合70%が事業を再開しているが問題は多い。 第1は、工場は再開したものの時間がかかり過ぎ販売先が他へ移り戻らないことだ。 大手業者に訊くと震災前の30%程度しか取り戻せないという。 第2は、漁港施設、魚市場が未だ応急かさ上げ、仮設(小漁港はテント仮設)の復旧途上にあり、量をこなすことができず、獲れた魚介類が被災地外の漁港に揚がってしまうこと。 第3は、いったん離れた労働力が思ったように戻らないこと。 石巻などは漁港から400m内側を海岸線と並行して走る県道を4.5m土盛りかさ上げして堤防機能を持たせる計画であるが、漁港のすぐ後方にある魚市場や水産加工工場、保冷倉庫といった水産業の集積は、この“堤防”より海側にある。 山側に走る交差点(逃げ道)は5カ所程度で働く人たちの不安を招いている。 さらに、建設労務、海のがれき処理の方が収入になることも一因になっている。 震災前から多くの課題を抱えていた水産業。 浜には漁協を中心とする漁業からの脱却を目指した漁業生産組合の設立や観光向け体験交流施設の開設など、漁業で食べて行ける仕組みづくりに向けた力強い動きも出てきている。 業のじり貧を克服するため、復旧・復興の加速とともに、協業化の推進、村井知事が提唱する沿岸漁業権を民間企業に開放する「水産業復興特区」の広がり、6次産業化など、港のイノベーションが急がれている。 * 農地復旧「まだら模様」 県内耕地面積の10%、13.000fが流失・冠水した農地の復旧(除塩を含む)は、59%が完了、排水機場などの農業用施設も3分の1まで復旧が進み一部で営農が再開された。 県は、一部の被災農地を圃場大区画化事業に組み込むほか、水没地周辺の農地1.200fについては堤防復旧を優先させるため、この6月、農地の復旧完了時期を当初の本年度末から2年程度ずれ込む見通しを示した。 しかし、もともと干拓地を持つ一部の農事組合法人からは、「塩害と戦ってきた経験からいえば、2年も海水に浸かった農地が生産力を回復するのは困難だ。」として復旧中止と救済を求める要望書を提出するなど混乱もみられる。 3年振りに営農を再開した被災農家にも、震災前とは大きく変わってしまった耕作環境に戸惑いの声があがっている。 除塩のため客土して田植えの準備をしてきた仙台市若林区の兼業農家の知人によると、入れ替えた土が硬く代掻きの時農機が土をかんでくれず、養分も乏しく、暫くは大豆栽培などで土作りをし、地力を回復した後稲作に戻すことにしたとのこと。 海岸線を南北に貫いていた幅30〜40mの分厚い防災林(防風林)が消失し、松林で防いでいた冷たい海風も心配だという。 一方、農業法人の設立、産消連携の拡大、6次産業化などの動きが、まだまだ点の状態ではあるが芽吹きつつある。 今後、如何に産業集積に結び付るかが課題となっている。 * 非常時に対応した「制度、運用の見直しを」 6月17日、あらかじめ復興の手順を定める「大規模災害復興法」と、事前対策から復旧までを盛り込んだ「改正災害対策基本法」が成立し、今後、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震を想定した具体的な制度づくりに着手することになった。 もともと、我が国の災害法制の原点は、昭和21年に発生した南海地震を機に翌年できた「災害救助法」であるという。 仮設住宅1戸当たりの仕様(床面積29.7u以下、建設単価243万円)は、今回は入居期間が2年を超えて長期化することになったので、途中から自治体の裁量で住環境を見直すなど弾力的に運用されてはいるが、この基本的仕様は今も生きており、社会と文化の変化に対応し切れていない。 まして、今回のような未曾有の大惨事を乗り切るのに既存制度(平時のルール)の範囲内で対応することは難しい。 震災から2年以上が経ち、被災者支援の施策や制度は徐々に拡充しているが、復旧・復興の遅れの一番の原因に制度上の壁を指摘する声は多い。 昨年のレポートでも一部触れたが、被災地でひろってきた声をいくつかあげてみる。 ・集団移転に係る「国交省大臣同意」:5戸程度の小規模集落移転には手続きの簡略化 ・集団移転先用地の確保:「土地収用法」の活用 ・土地区画整理事業における「地権者立会い同意手続き」:仮設住宅に暮らす被災者の負担が重く、簡素化 ・所有者不明・相続人不詳土地(特に堤防拡幅用地)の「管理処分権限」:自治体へ委譲 ・「環境アセス」:手続きの省略・簡素化 ・「かさ上げ費用国費投入可否要件」:夜間人口の緩和 (現行では「災害危険区域」用地の公園化構想など実現困難)等々。 ルールを少し変えるだけでスピードが速まるはずである。 10数年続いた公共事業予算の削減(ピーク時の1997年に比べ6割減)の影響で、例えば東北全体では生コン業者が3分の1まで減ったといわれており、また、膨大な復興関連業務に携わる専門的知識(特に土木技術者)を持つ自治体の人手不足も深刻化している。 復興の加速には、これらの対策に加えて、手続きの簡素化・簡略化など、既存制度にとらわれない大胆な施策が今必要とされているのではなかろうか。 また、支援策が強化されても、危険区域から外れた被災者の住宅再建支援策などでは、政策がおりてきた時のすき間が意外なほど広く、「届かない支援策」になっているとの指摘もある。 それぞれの被災実態に合わせた、より使いやすい制度設計が求められている。 * おわりに 先日、“伊達の歴史に学ぶ震災復興”フォーラムで、宮城県慶長使節船ミュージアム館濱田館長の話を聴いた。 「400年前(1613年)の支倉常長慶長遣欧使節は、その2年前の慶長三陸大地震・大津波(M8.5、津波の高さ20m)で被災した仙台藩を“通商”で建て直そうとした伊達政宗の壮大な復興プロジェクトとも考えられる。 世界の東北を見据えた未来志向のスケールの大きい事業に今学ぶべきことが多い。」と語っていたのが特に印象に残った。 潮(塩)、風、砂を防いできた“白砂青松”の植林が始まったのもこの頃だ。 政宗時代に掘り込みを始めた、穀倉地帯から石巻港へ繋がる運河“貞山堀”は今でも利用されている。 翻って考えてみると、東北は潜在的な可能性あふれる地域であり、時代を先取りした日本をリードする質の高い復興が求められている。 しかし、これまでのレポートでも指摘してきたように、各自治体の復興計画には、世界の構造転換につなげる視点や、10年、20年先の東北全体の姿を見据えた広域的視点が欠落してはいないだろうか。 また、それぞれの地域ニーズに即し重点が異なるはずだが、金太郎飴のように見えてならない。 さらに、各復興計画は、将来人口に関する何らかの見込みを念頭において策定されているはずである。 仙台都市圏への人口移動が現に足元で加速していることを考えると、計画の練り直しが必要になり、場合によっては、被災した施設等を必ずしも復興しない選択肢も出てくる。 計画に込められたメッセージが現実の状況とかけ離れたものになっていないか再点検も必要である。 先頃、仙台経済同友会が宮城県知事に対し、「仙台への一極集中が進む中、沿岸部に被災者が働きたいと思えるような企業が出てきて欲しい。」と企業誘致の実現を求めた。 沿岸部の被災地に新たな産業・企業が招致されたなどのニュースは未だ少ない。 新たな雇用を生む産業が育たなければ、復興関連の工事が落ち着いた後に多くの失業者が出るおそれもある。 地域経済が上向かないまま建設単価が高騰し、防災集団移転で住宅再建が始まる来年度以降には消費税の増税が予定されている。 住まいの再建を目指す被災者は一段と苦しい立場に追い込まれかねない。 復興まちづくりのスピードに地域間格差が生じていることは、これまで見てきた通りである。 数歩リードし、市中心部の賑わいを取り戻した仙台の様子が発信され、被災地全体が復興したように思われている一面もある。 また、行政の支援策は平等性を重んじるあまり、被災者をひとくくりにしている印象もある。 時間のかかる所、自立が困難な被災者が不利にならないように監視して行く必要があろう。 私もこの震災で友人、知人を亡くし、気仙沼離島の友人の行方は未だ不明だ。 現に被災地で苦労している友人、知人も大勢いる。 何の力にもなれないが、少しでも苦しみに寄り添い励ましになればとの思いで、現場の復旧・復興の進み具合を確かめながら、月に1〜2度は沿岸部の被災地へ足を運んでいる。 一方、Webページの「震災レポート」を見てくれた方から話を頼まれたり、また、被災地を訪ねて来てくれる方も多い。 できるだけ、私の車やマイクロバスに乗り込んで案内役を務めるようにしている。 私の場合、進まぬ復旧・復興に憤りながらも、がれきの山を越えて海岸通りへ向かった時の悲惨な光景が頭を過ぎり、「あの時よりは進んだな」、「あそこまでやられたのだから未だこの程度でも仕方ないな」といった、時の経過の中で被災地を見ることができる。 しかし、「風化」で震災の記憶が遠のき始めた中、初めて訪れた人たちはそうではない。 多くの被災地は何処も震災の日で時が止まったようにしか見えないようだ。 少なくともがれきの山はなくなっているが、2年の時を経てこの様子が信じられず、私よりもっともっと、「何も進んでいない」との強烈な印象を持って帰って行く。 「百聞は一見に如かず」とはこのことで、その後、震災孤児育英基金に寄せてくれるなど支援の輪を広げ、語り部にもなってくれている。 名取市閖上地区のかさ上げモデル台地からは、更地となった荒野が一望できる。 今の時期は残された土台を隠すかのように一面背丈ほどの草ぼうぼうである。 仙台七夕まつりの前日、全国各地から訪れた多くの人たちが慰霊塔に頭を下げ狭い台地に上っていた。 家族に付き添われて仮設住宅から訪れたと思われる杖をついた老人が、「このまま仮設で一生を終えるのか。」と呟いていた。 何ともやるせない思いがした。 一日も早い「暮らしと地域の再生」を願わずにはいられない。 以上
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